先日、ずっと見たかった「そこのみにて光輝く」を見てまいりました。
しかも鳥取→大阪の出張の合間です。
大阪についてその夜に見に行きました。東京だと時間がないのでこれはいかねばと。。
私の仲良い友人は知ってる人が多いんですが、ワタクシ、アジア人顔でパツ金ってのが萌えポイントなんですよ。
「じゃあ本田とか好きなの?」ってそれは違う。
どちらかというと、パツ金が似合わなそうな、あっさり顔の人が金髪とかにしてるのが良いんです!!(偏愛)
なので、ただでさえ綾野剛は好きですが、もうこういうのは「うぉぉぉーーーーー!」って感じです!!!
素敵すぎます!!
まあ、そんなことはさておき、
この「そこのみにて光輝く」はパツキンの綾野剛ではありません。
無精髭で、人生を放棄してるようなダメ男役です。
しかし綾野剛って、こういうダメ男役がまた似合います!
前出のロンググッドバイでも、まあ「ダメ男」です。
それでもその「ダメ男が漂わせる、女を引きつける謎のフェロモン」を
演技で出せるという・・・
すごいんですよ。
この話、いわゆる、世間でいう「底辺の暮らし」をしている人達が、
不器用に愛を求めて繋がり合うという話なのですが、、
この映画の評を見ていると「どん底の暗い話の中で、わずかに希望が・・」とか描かれているものの、
私が思うに、思ってる以上に幸せなお話だったと思うんですよね。
確かに池脇千鶴演じる「千夏」は身体を売って、
それを生活費にあてて、したくもない不倫をして、親の介護までしている。
おそらく「自分の人生こんなもんだ」と思ってるのでしょう。
けれど、綾野剛みたいな人がそこから救い出してくれるワケですよ。
結婚したいと思ってくれて、
不倫相手のところにいって、関係を辞めろといい、
身体を売る店も辞めろという。
なんという恵まれた話じゃないですか!?
濡れ場とかリアルなんですよ!もう!
「底辺の暮らし」ってなんなんでしょうか?
何を基準にして「底辺」というんでしょうか?
この映画の中で「私だって街を出たかった。けれど家族を置いていけなかった」
といっている。
この話は函館が舞台の話で、「仕事なんか無い、イカ工場も週3日で・・」というくだりがあるけれど、仕事の有無だとかは、
都会だろうか地方都市だろうが変わらないのではないか?と思う。
確かに都会は仕事が多いかもしれない。
けれど生活費も異常に高い。
私は数年前、仕入れ先の工場に自分の仕事の納品の手伝いにいった。
その時、作業しながら話していた、そこの工場に勤めている20代半ばの女の子に、
こう聞かれた。
「会社って、○○区なんですか?芸能人とかいっぱい住んでるとこですよね?」
「そうですよ」
「出身もその辺ですか?」
「そうですけど・・・」
「それってもう、その時点で勝ち組じゃないですか!?羨ましいです!」
その彼女の言葉に応えられなかった。
何をして「勝ち組」なんだろうか・・と。ふと思った。
確かに、彼女は都会に出て働きたいという夢や野心があったのかもしれない。
そういう人からみると「そこに最初から住んでる人」は
「勝ち組」に見えるのかもしれない。
けれど、決してそうではないと思う。
実際に、その生活を維持していくのも大変だし、
たとえば「都会に疲れた、田舎に帰ろうかな・・」なんてことはできない。
ある意味逃げ場がないのだ。
行きづまっても帰るところは、生まれ育って働いている、
彼女が憧れる東京のここだけなのだ。
そして、地方の人が思っている以上に、都会はコミュニティが狭い。
たとえば浅草。浅草と浅草橋は2駅しか変わらないけれど、
お祭りも全く別もの。
そんな中で育って、家族の面倒をみなければならない人は、
地方都市であろうと、田舎であろうと、都会であろうと、
この映画のこういう生活となんら変わりない。
淡々と日々の生活を送り、その仕事が、都会のビルでOLをしていようが、
身体を売ろうが、イカ工場だろうが、淡々と日々を送り、
家族のためにお金を稼ぐことには変わりないのだと。
自分も兄を亡くしてしまって、親戚もほとんど居ない。
「私だってここを出たかった。外国にいって仕事をしてみたいと思ったこともある。でも家族を置いていけない。」
同じ台詞を言えるということは、自分も世間からみたら底辺の暮らしなんだろうか?
それでも、この映画の千夏のように、自分が与えられた今のステージで、
今与えられていることを精一杯やるしかないんだと思う。
いつかマツコDがこんなこと言ってたけれど、
「有り難くも与えてもらったステージで、そこでただ一生懸命やるだけ。
そうしてまた次のステージが用意されたら、またそこで一生懸命やるだけ」
それを自分もモットーにしています。
そのステージを全うする途中で、綾野剛みたいな人が救いの手を差し伸べてくれないものか・・・・。